何故水戸徳川は、天下の副将軍といわれながら、
   将軍の跡継ぎを出さなかったのか?
TVの「水戸黄門」は、水戸光圀候をモデルにしています。

水戸家は、天下の副将軍といわれましたが、実は「水戸徳川家から本家継承はならぬ」という天海上人の遺言があったといいます。
そして、水戸徳川家より将軍が出たときは、徳川瓦解の時と予言したといいます。

確かに、最後の将軍十五代将軍徳川慶喜は、水戸家出身で、水戸から出た将軍はこの人が最初で最後です。

では何故、水戸家から将軍の跡継ぎを出すことを天海はいましめたのでしょうか?

それには、天源術に基づく、天海の深い知恵をみることができます。

天海上人は、天台密教に身ならず、兵法、陰陽五行に深くつうじており、彼が創生した天源術(十二支基礎学)には、人相診、性格学、占星術のほかに、今日の九星のもとになる方位学があります。
つまり天海上人の風水術といわれるものの根底には、この方位学の理論を取り込んでおり、結局おおもとは、陰陽五行なのです。

豊臣秀吉により、天下統一がなされたあと、豊臣秀吉は、徳川家康にそれまでの三河遠州の所領から、武蔵の国(今日の江戸)に国替えとなりました。

天正18年(1580)年8月1日、いわゆる八朔の吉日に家康は、江戸入りをしています。天正18年は寅年。当時の彼の居城のあった駿府からみると江戸は、東北東、干支では寅にあたります。もともと、家康は、天文11年の寅年の12月に生まれており、寅年生まれの男が、寅年に、寅の方向に引っ越したことになり、家康の相当なこだわりがみえます。

ちなみに方位学でいうと、艮、東北軸は、鬼門の方向は、変化改革の意味があります。

平安京の鬼門は、比叡山が守っています。
天海は、上野の地を東叡山として見立て、ここに寛永寺を建立し、鬼門方位の守護としまた。

また、北方位に日光東照宮を造営し、家康を大権現として祀っています。「東照」とは、「東の天照大神」であり、これは、天海オリジナルの山王一実神道により、家康を神格化して祀っているのです。これはもともと、天海の属している、天台宗で、山王神道論により、比叡山で朝廷の守り神である、天照大神をまつっているのにあやかっています。

北斗信仰とは、天体の見かけの運行では、北極星は常に、天の中心にいるようにみえるところから、天帝=北極星=紫微星とされました。そして、北の方位にある、紫微宮には、天帝がすみ、そこから生命を司る力が流れ込むと考えられました。

上の理屈により、天照=天帝=家康という方程式がなりたち、家康は北の方位で、江戸と幕府の守り神として見守ることになりました。

次ぎに、江戸城を中心に、目青不動(世田谷教学院、最勝寺)目赤不動(文京区、南谷寺)目黄不動(台東区永久寺)目白不動(豊島区金乗寺)目黒不動(目黒区竜泉寺)の『江戸五色不動』を配し、江戸の町の鎮守としました。

これは、それぞれの色が、陰陽五行の木、火、土、金、水の五行、を現しこの五つのエレメントで万物はなりたっているといわれており、東洋哲理でいえば、この五行のバランスがそろっていることこそが、望ましいのです。
また、『江戸五色不動』については、別頁で述べます。

江戸時代、御親藩といわれた水戸家、紀州、尾張家、この御親藩設置にも天海上人の深い知恵が隠されています。
そして、江戸の表鬼門にあたる水戸には、家康の十一男頼房を表鬼門にあたる紀伊には、十男頼宣を配し、九男義直の名古屋とともに御親藩としました。

そして、水戸徳川を副将軍としたのは表鬼門の守護に専念させるためであり、水戸徳川家より本家の後継者は出さないと決めておきました。

それは、艮(表鬼門)方位には、変化改革の事象があるので、ここから後継者を迎えると、そのエネルギーにより徳川幕府の政権の安泰と平穏を保てないからでした。

歴代の将軍は、増上寺、寛永寺のどちらかに仏式で、葬られていますが、慶喜のみは、神式でおこなわれ、このためお墓は、寛永寺のそばの谷中の墓地にあります。

徳川慶喜は、大政奉還をし、徳川幕府の終焉を迎えたものとして、歴代の将軍と同じ墓に入るのを遠慮したのかもしれません。

しかし、寛永寺が、天海和尚が創立したことを思えば、何か因縁も感じます。

このように、もともと荒地の江戸を天海の天源術で、風水の結界をはり、江戸を呪術的にもまもったからこそ、江戸は発展し、徳川幕府260年の安定した基盤が築けたといえるでしょう。


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