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家康と出会い、徳川幕府の功労者へ
慶長13(1608)年、比叡山の勢力争いの訴えが家康の元に持ち込まれました。

もともと家康は、比叡山を自分の支配下におこうとしていたので、天海を探題(訴訟の裁断をつかさどる目付け役)として送りました。

天海は、信長の焼きうち以降、荒れ果てた比叡山の南光房(それで別名南光房法印とよばれたのです)に住み、お山の復興に力をそそぎました。

これ以後、家康のブレーンとして重用され、その知力と天台密教の修験者としての法力で、徳川幕府の基礎を築きました。

例えば、豊臣氏滅亡のきっかけになった方広寺の「国家安康の鐘」の知恵も、天海が指南したといわれます。

また、もっと怖いのは、徳川家と豊臣家の最終対決を控えた時期、五奉行の浅野長政をはじめ堀尾吉春、加藤清正、真田昌幸、前田利長といった、豊臣恩顧の大名が次々と亡くなっていることです。

これは、天海が呪い殺したと、当時からうわさが出ていたようですが、真偽のほどはよくわかりません。

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